* * *
薄暗くて冷たい牢内で、雁はじっと蹲っていた。外気とほぼ同じ気温でこのまま凍死してもおかしくない状況のなか、鬼造姉妹が準備した食事におそるおそる手をつける。 温かかったであろう味噌汁はすでに冷めていたが、喉元に流れ込む塩味が自分の生存の証のように感じられた。 土を掘削して造られたそこは地下牢に違いないだろうが、土の上に茣蓙が敷かれているため座敷牢だと鬼造姉妹は口にしていた。姉のみぞれは雁を嗜虐的な視線で攻撃し、妹のあられは被虐的な態度で顔を歪ませながら。けれど、暗示にかけられたままの雁からすれば、どちらの態度も気にならない。 黙って味噌汁を啜っていると、ふいに柵の向こうが明るくなった。何事かと顔をあげると、見知った顔のふたりの少女が煌々とした橙色の松明を片手に石段を降りてきたところだった。「あら……ずいぶん弱っちゃったわね」
この声は誰だったか。女学校で何度もやりとりをした馴染みのある声色に雁の表情が軟化する。
「でも、明日には解放されますから」
にこやかに続けるのは鬼造姉妹の片割れ。身長が低いので、姉のみぞれだろうと雁はあたまの片隅で認識する。だとすると、隣にいるのは慈雨だろう。すこしだけあたまのなかが鮮明になる。ふたりがここにいるということは、自分の処遇が決まったということだろう。
「嫁入りの儀式を行います。『雪』であるあなたがまさか神嫁になるなんて……」
「みぞれ、いまの彼女には何を言っても無駄よ」みぞれの言葉に応える慈雨はくすくす笑う。何がおかしいのか雁には理解できない。けれどその笑い方やひとを小莫迦にしたような態度を、雁は確かに覚えていた。
「さよならを言いに来たの。これは餞別」
みぞれが取り出し、柵の間から差し出したのは無色透明な硝子玉だった。
「冴利さまが調合してくださった『雨』の部族の、ごく一部の者だけに伝わる秘薬ですって。これを飲めば、苦しむことなくあなたは神嫁になれるわ。儀式の朝になったら、飲みなさい」
みぞれがどこか誇らしげに差し出してきたその薬は、天神の娘を殺そうとした
「ちょっと手荒だったかな。まあ彼なら大丈夫だろう。それより『雷』の王ね……君はそこまで識っていたのかい? 桂也乃」 小環の気配が消えたのを見送るように、西洋服姿の桂也乃が四季の前に現れる。閉じられたままの彼女の瞳に四季が手を翳すと、夜空を思わせる藍色に近い黒の双眸が四季の前へ顕現する。「きみの魂ならボクが回収したよ。戻るんだ。きみを待つ大切なひとたちのいる世界に」 桂也乃の瞳からは透明な涙が溢れている。四季は彼女の前に跪き、落ちてきた雫を自らの手のひらで受け取り、やさしく言葉を紡ぐ。「きみにしかできないことをやり遂げるんだよ。まだ、きみはこの世界に来ちゃいけない。ボクのことは忘れるんだ」 帝都出身の桂也乃にふたつ名はない。だから四季が名前で縛って自分のことを忘れさせることはできないけれど、忘れさせる暗示をかけることならできる。ほんとうなら、覚えていてほしい。でも、自分のせいで桂也乃がいつまでも罪の意識を感じる姿は見たくない。 桂也乃は首を横に振り、四季のことを忘れたくないと泣きじゃくる。「さよならだよ、桂也乃」 四季は子どもを宥めるように桂也乃を抱きしめ、おとなのように、舌を絡める接吻をする。 桂也乃が驚いた顔をして、四季に手を出そうとした瞬間、天に開いた漆黒の闇は黄金色に染め上げられ、桂也乃の姿がかき消える。 夜明けだ。 四季は頷き、白い大地に大の字になる。「桂也乃の平手、届かなかったな……」 くすくす笑って、四季は訪れた睡魔を素直に受け入れる。次に目覚めるときはきっと。 ――何も覚えていない。 * * * 寒椿の花が咲き乱れる女学校の片隅で、小環は意識を取り戻す。いままでまともに顔を見ることのできなかった太陽が、青々とした空の上で燦々と輝いている。「……っ」 いままでの出来事は夢だったのだろうか。冷たい大地を溶かしていくように、太陽の熱が小環に注がれて
呼ぶ声がきこえた。「桜桃?」 小環がハッと後ろに振り返った瞬間、地面が極彩色に変貌する。 ぽす、という間抜けな音とともに、桜桃が自分の胸のなかに飛び込んでくる。彼女の額には星のような大輪の躑躅の花が咲いている。「――そういえば、空我家の花印は躑躅だったわね。神々も粋な計らいをしてくださること」 くすくす、という笑い声とともに、慈雨が桜桃たちの前へ立ちはだかる。「……畜生、ついてきやがった」「あなたを見張っていれば天神の娘……いえ、もう天女のちからを取り戻しているとみていいのでしょうね……彼女の居場所もすぐわかるもの。だけど、逆さ斎までいるとは思わなかったわ」「ごきげんよう、邪悪なる『雷』に魅入られし娘」 四季は慈雨を前にしても驚くことなく、淡々と言葉を紡ぐ。「あたくしがこの地に出入りしていることをあなたは識っていたのかしら。だからそこまで冷静なのね」 つまらなそうに慈雨は四季の言葉に応え、警戒している小環と状況が理解できていない桜桃をじっと見つめ、にこやかに告げる。「天女とその羽衣、あなたたちが一緒になると、『雷』の王が嘆き悲しむの。悪いけど」 慈雨は笑顔を張りつけたまま、桜桃の額に向けて術を放つ。「Meshrototke〈眠って〉」 ピシ、と額に刻まれていた躑躅の印は一瞬で薄まり、桜桃の周囲に咲いていた色とりどりの草花もふたたび冬眠に陥ってしまったかのように散ってしまう。地面が枯れ草に支配されると同時に、桜桃の身体もがくりとちからを失い、小環の腕のなかで意識を失っていた。「なにっ」 こうもあっさりちからを抑え込む慈雨に、四季が声を荒げ、瞳を瞬かせる。「カシケキクの血が流れているのはあなただけではなくってよ。伊妻の祖が帝都へ移り住んだ三神みかみだということを、忘れていたわね?」 カシケキクの傍流はカイムの地に数多といる。その多くは身に神を宿すという意味のミカミを
* * * 「気がついた?」 「四季さん? なんで、ここに?」 桜桃は四季の腕に抱きかかえられたまま、ぱちくりと瞬きをする。自分はなぜこんなところにいるのだろう。たしか、小環と寒河江雁の暗示を解いて、危機に瀕している桂也乃の元へ向かっていたはずだ。「……でも、途中でおおきな地震が起こって」 「神々がふだんは隠している界夢の扉を開いたのさ」 「カイムの扉?」 まっさらな地面に下ろされた桜桃は四季の言葉に首を傾げる。「神謡に詠われている約束の地。北海大陸で寿命を迎えた魂が舞い戻り、新たな生命の息吹のために歯車を回す場所」 四季の言葉は抽象的でよくわからないが、桜桃はうん、と頷いて全体を見渡す。 空は青く、陸は白く、どこまでもどこまでもつづいている。白いのは雪かと思いきや、小さな白詰草の群生だった。桜桃は自分が初めて北海大陸で見た夢のなかの世界だと理解し、四季に向き直る。「扉が開くとき、神々は新たな天女の降臨を真に望む。さくら、君は選ばれた。カイムの地に春を呼ぶ天女として、神々は君の存在を受け入れたんだ」 四季は桜桃の額へ手を翳し、一瞬で星型の花の印を刻んだ。音もなく額から淡い薄桃色のひかりが芽生える。桜桃の身体が熱を持ち、彼女が立っていた足元には、白以外の、赤や黄色の色彩の花がゆっくりと空へ向かって開きはじめている。「ちょ、ちょっと待って。四季さん、言ってることがよくわからな」 「時間がない」 桜桃の戸惑いを遮り、四季はきっぱりと告げる。四季は識、になっている。桜桃は黙り込み、四季の言葉に耳を傾ける。「羽衣の役割を担う彼にも伝えてほしい。神謡から、きみたちが成すべきことはわかっているだろうから」 「小環はここには来ないの?」 「いや、君を追って来てはいるが……辿りつけるかはわからないからな」 「どういうこと? 界夢って一か所じゃないの?」 「同じとは限らないよ。神々が管理するこの箱庭はときどき時空の歪みを生むし、誤って海や川に落ちればそのまま循環の輪のなかへ
どこまでもつづく青い、蒼い、碧い世界。 白雲の向こうに佇むのは、湖水だろうか天空だろうか。小環は奇妙な浮遊感に身を委ねたまま四季たちの場所へ急ぐ。 ときどきすれ違うのは懐かしいひとたち。小環の母、蛍子は少女のような笑みを浮かべて彼を見送ってくれる。異母兄の湾の生母、篁八重がカイムの古語を口ずさんでいる姿も見える。ここは死後の世界なのだろうか。だとしたら、小環に呼びかけてくれた巫女装束の女性はきっと、桜桃の母、セツなのだろう。〈天と地を結ぶ始祖神の末裔(すえ)よ、至高神に愛されし娘を娶りて春の栄華を咲かすのじゃ〉 しゃらん、と錫杖が鳴り響き、小環の視界が反転する。あおかった世界に藍色が重なり、一瞬で色彩が奪われる。 目の前が白と黒に、占領された。「死んでまであたくしの邪魔をするなんて、愚かな女」 銀白のような髪を腰まで垂らし、緋袴に純白の袿を纏う女性の姿もまた、変貌を遂げていた。 あおい世界はしろい世界へ。まるで、冬の最中の雪原のような寒々しさ。そこに降り立っていたのは、見知った少女。「……梧」 黒く見えたのは濃紺のボレロだった。慈雨は小環を見つけるとにやりと嗤う。 突然現れた慈雨に、小環は驚きを隠せない。「いま、春を呼んでもらっては困るのよ。ようやく皇一族の人間をひとり、葬れたっていうのに」 「彼女をどうした」 「刺しただけよ? すぐに死んだらつまらないからあえて急所は外したけど、もう助からないでしょうね。ほら見て? あそこにいるじゃない」 慈雨が指で示した先には、淡い撫子色の西洋服を纏った桂也乃の姿があった。まるで異国の結婚装束のようにも見える。けれど、愛らしい花のような装いをしている彼女の表情は、能面のようにまっさらで、小環の知る彼女ではない。「おい、黒多! こんなところで何やってるんだよ? 戻って来い!」 小環の声は桂也乃に届かず、桂也乃の姿は煙のように消えてしまう。「無駄よ。カイムの術者でも戻るのが難しいこの界夢に彷
――だというのに。〈鋭いね。禁術を発動している〉 「そんなことしたら、出られなくなるじゃない!」 〈もとよりそのつもりだから心配しないで。あとのことは天神の娘と始祖神の末裔に任せて隠居するだけだから〉 まるで老人みたいだな、とけらけら自嘲する四季が、まるで目の前にいるように見える。「……知らないわ」 両手で耳を塞ぐ雁。けれど、四季の言葉は遮れない。〈ボクのことは忘れるんだ、いいね……朝になったら、忘れるんだよ、狩〉 泣きたいほどやさしい声音が雁に届く。 ふたつ名で簡単に縛られてしまう自分がもどかしい。「忘れるものですか! もう、ちからあるひとたちの暗示なんかに従わないんだから!」 そう撥ね退けても、四季の言葉は雁の心臓を抉っていく。 そんな雁を気にすることなく四季はふだんどおり淡々とつづけていく。〈まずは少し先で立ちすくんでるボクの式神を回収してもらおうかな。そしたら救護室で桂也乃たちと合流して。そこで朝まで休めばいいよ〉 「……ひとの話、きいてないわね」 呆れながら雁は頷く。最終的には四季に言われたとおりに動かざるおえないのだろう。〈伊妻の件には関わるな。彼女は魂の在り処を邪神に明け渡している。きみもわかるだろう? 桂也乃が刺されたんだ〉 「……皇一族の、始祖神の血が流れたのね」 〈彼女は帝都に伊妻の残党が慈雨であることを手紙で伝えていたんだ。彼女はそれを知って桂也乃を害した。けど、もう歯車は動き出している。帝都から追手が来る。それですべては終わる〉 慈雨のことを指摘され、雁は黙り込む。同室で学校生活を共にした慈雨は、自分をふたつ名で操り天神の娘を害そうとした慈雨は、すでにカイムの神々に見放されている。邪神を浄化しても、慈雨は戻らない。そう、四季は暗に告げたのだ。「……わかったわ」 彼女を救うことはできない。皇一族に属する桂也乃を害したのが伊妻の生き残りである慈雨だと、知れ渡ってしまったから。いままで革命の刻を待ち隠れていた彼女は、皇一
* * * 雁を連れて桜桃と小環は寮へ向けて走りつづける。いまにも飲み込まれそうな暗闇に、雁が編み出した蛍のような明かりを浮かべ、先導させて、後を追う。 大地が揺れる。土が膨れ上がり、地面に這っていた枯草が息を吹き返したかのように鎌首をもたげ、桜桃の足元へ絡みつく。「えっ?」 「桜桃!」 瞬息。ぱっくりと地面が割れ、桜桃の身体が吸い込まれていく。小環は救いを求めて宙を流離う彼女の手を掴もうとするが、届かない。「そんな」 雁は揺れつづける大地に慄然し、引き裂かれた小環と桜桃を見つめ、嘆く。「もはや、手遅れだというのですか……?」 事態を静観していた神々が、ついに天神の娘の身を欲したのだと雁は本能的に感じ、身体を震わせる。 鳴動をつづける大地を前に、小環は畜生と毒づきながら、身を翻す。「篁さん、何を……!」 「桜桃を追う」 「でも、彼女は」 「天女を生贄に求めるほど、神々は狂っているわけじゃないだろ? 邪悪なものに魅せられているのは、神々を利用した伊妻だ。神々が桜桃を必要としているのなら、俺もまた、それに従うまでだ」〈そのとおり、早くおいで〉「っ!」 ぴっ、と鋭い声が雷鳴のように降り注ぐ。雁と小環は視線を交錯させ、声の主が見知った人物であることを確認する。「逆さ斎……あなたなのね」 〈そうだよ『雪』の乙女。君はボクを識っているんだね〉 「……ええ、でも、なぜ」 「それより逆井! 桜桃をどうした!」 〈おお怖い怖い。手荒な真似はさせたくなかったんだけどね……ボクの腕の中にいるよ〉 「無事なんだな」 〈もちろん。君だってわかっていて訊いているんだろ?〉 「まあな。俺もいまからそっちに向かう」 〈辿りつけるかな?〉 挑発するように四季の声が木霊する。小環はその声を無視して天と地の狭間に開いた空間を見下ろす。深夜だというのに、向こう側の世界は澄み切った青空が海のようになみなみと注が